自己模倣に陥る細田守 『竜とそばかすの姫』評

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映画『竜とそばかすの姫』ポスター(c)2021 スタジオ地図


まず、楽曲制作に常田大希を起用している所から何か新しいことをしようとする姿勢は感じられる。また、監督自らの選出なのかは分からないが、業界の人間から注目されている中村佳穂を主役に抜擢(ばってき)している所にもセンスを感じる。

「すず」というキャラクターのコミュニケーション力の低さやそれ故の異物感を表すのにも、演技ど素人の中村氏は適任だったと思われる。

予想外だったのは、幾多りらの演技力の高さだ。他の役者が俳優や女優なのに対し、すずとヒロに歌手を起用したのは、先の異物感(『風立ちぬ』における庵野秀明のような)、すずが世界を共有できるヒロというキャラクター性を狙ってのものであろうが、他の役者に引けを取らない演技力であった。

それによって、作品の質が下がるわけではなく、むしろすずの疎外感がより濃く表現されることとなり、よい装置になっている。幾多りらの役者としてのこれからも期待できる。

しかし、残念だったのは、すずが”Belle”という皮を剥ぎ、素顔を晒すシーンである。

“Belle”の皮を自ら脱ぎ、歌う、そこまでは非常に良かった。しかし何故歌い切らないまま、また皮を被るのか。”Belle”の皮は憧れの象徴、すずにとっての瑠香、細田守にとっての宮崎駿であろう。前作、『未来のミライ』を細田版『千と千尋の神隠し』とするなら、今回は駿を捨てた”シン・ホソダ”を見れるのだと期待した。しかし、その期待むなしく、細田はまた駿の仮面を被るのだ。

そう考えると『はなればなれの君へ』は細田監督から宮崎監督への重すぎるラブソングとも捉えてよいのかもしれない。”歌い継ぐ 愛してる いつまでも”という歌詞はそのまま細田監督から宮崎監督へのメッセージなのだろう。

この時、今作は逆説的に新しいこと、宮崎駿っぽくない細田作品となるのだが、こうも魅力に欠けるのは何故だろうか。おそらく、駿リスペクトの細田作品がただの模造品にとどまっているからだろう。本音を隠そうとするシャイさは似ているが、作品のテーマの所で駿との教養の差が明らかになってしまっている。今作に至っては、仮想空間を舞台にするというサマーウォーズ』の頃の自分の自己模倣に陥ってしまっている。

 

総合評価:54点

(内訳)

映像美:15*

テンポ:8

演技力:12

物語性:9

主題性:10

 

*映像美は楽曲の点も加えたものとした